世間を揺るがす沢尻エリカさんの一件で注目度がより増した感のある2020年の『NHK大河ドラマ 麒麟が来る』、楽しみにしている方も多いんじゃないでしょうか。
紆余曲折を経て新たに濃姫(帰蝶)を演じることになった川口春奈さんの心意気には、「日本中があなたの味方だよ。」と伝えてあげたい気持ちになっていると言っても過言ではないと個人的には思っています。(笑)
そんな話題沸騰中の戦国の華・濃姫(帰蝶)ですが、一体何をした人かご存じですか?
「歴史の教科書で名前は見たことあったな。」程度の思い入れの方、ご安心ください。
こちらの記事では、濃姫がどんな女性であったのか?その生涯・織田信長に結婚することになった経緯。
明智光秀との知られざる関係性やその生涯、濃姫がどう幕を閉じたのかなど気になる点をわかりやすく解説していきます。
謎多き生涯を大河ドラマに間に合うよう勉強して、名優達の演技も十分に楽しめるように準備していきましょう!
濃姫(帰蝶)とはどんな人物?織田信長の妻の生涯とは?
「濃姫(帰蝶)ってどんな人だったんだろう?何をした人なんだろう?」と聞かれて、演じる川口春奈さんが美人だから、きっと美人だったんだと思われた方、私もです!(笑)
しかし、残された銅像からは美人かどうかすら推測できないのも残念なところであります。
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ただ濃姫について調べてみるとほとんどのエピソードが不確定なことばかりで、確実にわかっていることはほとんどないという事がわかってきました。
織田信長という人物の妻という有力な立場にも関わらず、謎が多いのはなんとも意外な感じがしますよね。
ではその生涯がどんなものだったのか、確実にわかっていることはどんなことでその他のことはどんな仮説が立てられているのかなど詳細を見ていきましょう。
濃姫(帰蝶)の生い立ちは?
濃姫は1535年に美濃国・斎藤道山とその妻・小見の方の間に正室唯一の娘としてこの世に生を受けたとされています。
と言っても、正確な生年月日はわかっていません。出生の時点から謎の女性というわけです。
恩人の長井長弘,土岐頼芸を始末し #国盗り物語 を完遂した #斎藤道三 には「家族に炊かせた火で釜茹刑,牛裂きや蓑虫踊りを見て楽しんだ」など悪評芬芬。が中世的因習破壊の先駆者でもあり逸早く長槍や鉄砲を導入した進取の人。娘婿 #織田信長 は善悪両面で影響を受けた様です⇒https://t.co/NNbNkr4WjC pic.twitter.com/k1whRK3h97
— 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (@History_JP_5963) 2018年9月10日
ちなみに濃姫という名前は美濃の国の高貴な女性だから、濃姫と呼ばれている(『絵本太閤記』『武将感状記』より)だけであって、
正式な名前は帰蝶または胡蝶であったという説(『美濃国諸旧記』『武功夜吾』より)があります。
名前だけで何パターンも候補があるなんて現代では考えられませんが、この時代は史料に女性の名前を残す概念がないのでそれも仕方がないことなんですね。
濃姫の母である小見の方は東美濃の名門・明智家の出であるとされており、明智光秀の叔母にあたる人物です。
そのことから濃姫と明智光秀は実は従妹関係にあったとのではないかとされています。
従妹同士が一方は織田信長の妻に・他方は織田信長の有力家臣ながらも後に裏切った人間になるなんてドラマチックなお話ですが、明智光秀の出生に関しても明確な史料がないためあくまで推測です。
濃姫(帰蝶)は政略結婚で織田信長の妻になった?
濃姫と言えば織田信長の妻というイメージが強いですが、実はそれより前に他の人に嫁いだ経験があると推測されています。
濃姫が5歳程度という物ごごろもつかぬ時期、父・斎藤道山は美濃国の国守となりました。
その時に美濃国から追放されてしまったのが当時の守護であった土岐頼芸です。
土岐頼芸は織田信長の父・織田信秀を頼り、そのことから斎藤道山と織田信秀の間に戦が起こります。
同時期に越前の朝倉孝景の後ろ盾を得た土岐頼芸の甥・土岐頼純にも攻め込まれてしまい、斎藤道山はその対応に苦心するのです。
そこで思いついたのがずばり政略結婚をかわすことで、それを利用し織田・朝倉両家と和睦を結んでしまおうと考えたのです。
織田家との婚姻が一旦保留になったことを受け、濃姫は正室唯一の娘という立場から土岐頼純に嫁いだとされています。
その後大桑城落城の際に土岐頼純が突然死してしまったため夫婦関係を終えて、濃姫は美濃の実家に帰ることになったとされています。
美濃国守護であった土岐頼芸殿の墓に参拝致した、(揖斐川町の法雲寺)
道三様の旧主でもありまする、
頼芸殿を追放し、道三様は美濃国を手に入れたのじゃ…
「美濃を制するものは天下を制す」
道三 pic.twitter.com/JqKbFktxGT— 長井道利@岐阜城盛り上げ隊 (@nagaimichitoshi) 2016年7月18日
大垣城をめぐる織田信秀との対立に頭を抱えていた斎藤道山は、これ幸いと保留になっていた縁談を推し進め濃姫は2度目の結婚をすることになります。
1548年わずか中学生程度の年齢にして二度目の結婚・しかも相手は大うつけと呼ばれた織田信長と、若くして戦国の混乱の中に身を投じることになった濃姫。
ちなみに織田信長との間に子供はいなかったと通説では言われていますが、若くしてこれだけのものを背負った人生ならば、それも難しいのではないかと個人的には思ってしまいました。
濃姫(帰蝶)はやり手だったという逸話も
ここまでどちらかというとかなり不憫な立場だったというニュアンスの話が多かった濃姫ですが、実は転んでもただでは起きないやり手の女性だったのではないかという逸話も存在します。
残虐な一面をクローズアップされがちな織田信長に臆することなく直言を入れられたのは濃姫だけだったのではないか、という逸話が後世に残っているのはご存じでしょうか。
公家・山科言継の日記として知られる『言継卿記』には下記の記述が残っています。
織田信長は濃姫の実家にあたる斎藤家を制圧し、美濃国を治めることになりました。
その時、斎藤義龍が持っていた壺を出すように織田信長が命じるのですが、濃姫は「落城の際に無くなりました。」と言い放ちました。
そんなことでは簡単に納得しない織田信長ですが、濃姫が「信じられないなら、一族のものとともに死にます。」と言い出し、美濃の有力な家臣達がこれに同調し始めると根負けしてしまったというのです。
壺の話からビックリする方向へ話が展開してしまったわけですが、濃姫の度胸はさすがの一言ですよね。
言継卿記の『斎藤義龍の壺事件』の記事はこれだナ pic.twitter.com/nUUErEWUyE
— まとめ管理人 (@1059kanri) 2019年3月6日
ただ座ってニコニコしているだけの女性には織田信長の妻は務まらないのだ、と改めて思わされる逸話ですね。
また正室としての立場についてはこんな説があります。
織田信長との間に子供が出来なかったために、織田信長は数多の女性と関係を持ち多くの側室がいたとされています。
大奥よろしく、多くの女性が集まればそれなりにドロドロした状況になりそうなものですがそういった話は全然聞かれません。
それは濃姫が正室としてしっかりとした立場にあり、規律が整っていたのではないかと予想されます。
濃姫(帰蝶)と明智光秀は恋仲だった説がある?
創作の世界において、濃姫と明智光秀が心を通い合わせた悲恋の間柄だったとする作品がいくつか見られます。
最も有名なのはNHK大河ドラマ『功名が辻』であり、織田信長を含めた三角関係と本能寺の変が絡めた物語の展開だったので、こちらの印象が強い方が少なからずいらっしゃることと思います。
1570年本願寺挙兵で信長包囲網が興るも将軍義昭が和睦の勅を取付け窮地脱出。殊勲の #明智光秀 は一躍近江坂本10万石と丹波攻略を任され陰謀将軍を見限り織田家専属に。が #松永久秀 荒木村重の謀反に忙殺されて6年を費やし更に本願寺降伏で畿内攻伐も終り半端な遊軍的立場に⇒https://t.co/OFPPcT7Dij pic.twitter.com/WKMZHhM5ca
— 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (@History_JP_5963) 2019年11月19日
また本能寺の変では濃姫が明智光秀に加担したのではないかとするお話もあります。
幼き頃から心を通わせた2人が政略結婚で間を引き裂かれ、それが本能寺の変の遠因になったというドラマチックな筋書きですね。
ただこれもあくまで創作でのお話で、史料には一切この2人の恋仲を裏付けるものは存在しません。
実際のところ血縁としても近く織田家の中でも重臣と正室という立場上、お互い見知った仲であった可能性は高いと考えられます。
ですが、明智光秀は濃姫が織田信長と結婚する3年前である1545年頃には妻木煕子(つまきひろこ)と夫婦の関係にあり、濃姫はまだ10代前半という年齢です。
さらに明智光秀が愛妻家であったとされる記述も多々あり、明智光秀が理知的であったとの推測もあるので現実的には疑わしいところです。
私個人としてはそんな昼ドラ並みにごちゃついた人間関係はよしてほしいと思ってます。(笑)
濃姫(帰蝶)の最後が謎である理由とは?3つの諸説を考察!
濃姫が記録に残っているのは“菩提寺・常在寺に父・斎藤道山の肖像画を寄進した”という記述が確認されている最後のものであると言われています。
しかし、この肖像の寄進をしたタイミングも定かではありません。
当然のことながら、濃姫の最後に関しては謎のままで確定できるものは今日まで見つかっていないのです。
岐阜県 岐阜市にある常在寺 日蓮宗のお寺になります。
斎藤道三、義龍など斎藤家の菩提寺になります。#御朱印 #御首題 #常在寺 pic.twitter.com/gOBnagEVSu— 高虎 (@Mi_Suerte_Mare) 2017年10月10日
つまり、本能寺の変前後に死去したのか静かに生き延びていたのか定かではなく、死因も分かりません。
そのためここでは、歴史を研究している人々の間で有力視されている3つの仮説を紐解き考察していきたいと思います。
濃姫(帰蝶)は離縁し、病死した説
織田信長との間に子供を授からなかったことから、早々に離婚し実家に帰ったのではないかという説があります。
この説は織田信長が斎藤家を滅ぼし同盟関係は完全に破綻していたことに心痛めたことも影響したのではという推測もちらほら見られ、心情面では察するに余りあります。
また、1556年織田信長の側室・生駒吉乃が妊娠したためお役御免として離縁されたなどの予想もあるので、可能性として全くない話ではないというところでしょうか。
さらに濃姫は母・小見の方譲りの病気がちな女性であったとされ、その病床中に織田信長が生駒吉乃と関係を持ったのではないかという説も存在します。
妻の病気もしくは妊娠中に他の女ととなると現代では大炎上して袋叩きにあうスキャンダルですが、この時代では子を残すことが最大の責務だったため致し方なしというところでしょうか。
その後生駒吉乃は織田信長との間に3人の子をもうけるも体調を崩し他界するのですが、愛されていたとて若くして亡くなった生駒吉乃も切ないものがあります。
愛知県江南市にある
久昌寺というお寺は
織田信長の本妻の菩提寺ここに行ったとき
たまたまそのお寺に
掃除のためにきていた方が
織田信長に関する様々な
誤解について話してくれたこのお寺の裏側には
信長の奥さんのお墓がある
信長は奥さんをすごく
大事に思っていたらしい#久昌寺 pic.twitter.com/JileW7koKk— かりな☆そのまんま (@karina_koko231) 2019年10月24日
つくづくこの時代に生まれなくてよかったなと思ってしまいますよね。こちらの説は裏付ける史料がなく、あくまで仮説です。
濃姫(帰蝶)は本能寺の変で亡くなった説
1582年本能寺の変で織田信長がなくなった時に、濃姫も同じくして亡くなったのではないかという説です。
この説は創作の世界で織田信長との純愛を示唆するエピソードとして盛り込まれる場合があります。
濃姫は薙刀をふるい明智光秀側の兵士と戦い命を落としたとされる話がありますが、“本能寺の変で戦死した”及び“濃姫が薙刀が使えた”という史料による記述はなく話はあくまで推測です。
ただ、この件については岐阜県岐阜市不動町にある『濃姫遺髪塚』の説明板に、織田信長と本能寺の変で亡くなった後、家臣が濃姫の髪をもって現れこの地に埋葬したという話が口伝で継承されていることが示されています。
ただ従妹同士かつ政略結婚での婚姻関係であった経緯を知るところであった明智光秀が、濃姫を殺すことを考えるのは常識的にも心情的にも合点がいかない点ではありますね。
もう少し検証が必要な説と言えると思います。
濃姫(帰蝶)は実は長生きだった説
本能寺の変で夫織田信長を亡くした後も、濃姫はひっそりと生きていたという説もあります。
濃姫及び帰蝶という名が本能寺の変後の史料に見られることはありません。
しかし「これは濃姫ではないか」と推測されている記述はいくつか存在します。
先に紹介した『言継卿記』には、“近江の方(斎藤義龍の後家と見られる女性)をかばう信長の妻”“しゅうと(小見の方)に会いに行く信長”という記述が存在し、これが濃姫の生存を指すのではないかという予想です。
さらに大村由紀著の『総見院殿追善記』に安土城から落ち延びた北の方(正室)という記述があります。
この史料が間違いないとするならば本能寺の変の際は安土城に濃姫がいたことになるので、どう逃げてきたかが検証が必要なポイントであると言えるでしょう。
信長公木像、凄ぇ 大徳寺の塔頭 #総見院 特別公開。撮禁故画像無しだが、矢印の辺りに座ってる。信長一族墓碑はちゃんと見られた pic.twitter.com/si7zQCc2Ph
— ブラッケン (@burakken20) 2019年4月29日
このように本能寺の変後にもそれらしい記述が多いためか、NHK大河ドラマ『信長』では濃姫が1612年8月5日に78歳でその生涯に幕を閉じたという内容で放送がされ話題になりました。
今回の2020年の大河ドラマではどのように描かれるのか、今からとても楽しみですね。
ミロのビーナスは腕を失い永遠の美しさを得た象徴として語られますが、濃姫も謎のベールに包まれているからこそ私たちの興味をそそられる存在であり続けるのかもしれません。
今後の研究に期待しながら、歴史のロマンに浸るのも私個人としては素敵な時間の過ごし方かなと思います。
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