『アドルフ・ヒトラーという人を一体何をした人物なのか?』
これを具体的に説明できる人が現代の日本にどれほどいらっしゃるでしょう。
ユダヤ人と呼ばれる人々を傷つけた痛ましい過去の首謀者である、という認識が日本人には強いと思います。
ただ悲劇であるがゆえに、終戦から80年近くたった今出来れば目を背けたいという気持ちの方も多いのではないでしょうか。
この記事ではヒトラーがユダヤ人を迫害した理由、そしてどんな迫害が行われたのか?
悲劇の象徴であったアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所とはどんな場所だったのか?
など、第二次世界大戦中の人種差別の内容とその歴史をわかりやすく解説していきます。
目を背けたくなる悲劇ほど、二度と歴史を繰り返さないためにも詳細を語り継ぐべきだと現代に生きる人間としては強く感じます。
だからこそ見逃さず最後までご覧くださいね。
ヒトラーがユダヤ人を迫害した理由とは?歴史をわかりやすく解説
我々は敵を絶滅する。根こそぎに、容赦なく、断固として
アドルフ・ヒトラー pic.twitter.com/1aOa8gjloq
— 革命と支配は相互する。 (@ruler_speech) November 28, 2019
ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は宗教に起因するもので、その歴史ははるか昔イエス・キリストの死亡を発端に始まったとされています。
もともとはユダヤ教から派生したのがキリスト教とされていますが、イエス・キリストを救世主として認めなかったことから長きにわたる悲劇がスタートしたのです。
ヨーロッパにキリスト教の信仰が広がり始めた頃「ユダヤ人はキリスト教を冒涜する存在」という認識のもと、ユダヤ人は職業選択の自由を奪われてしまいます。
仕方なくキリスト教徒が嫌がる金融業に従事するようになって、さらにキリスト教徒から差別を受けるようになりました。
このように本来ユダヤ人には関係がない事柄をユダヤ人に結び付けて、精神的・物理的に追い込んでいく悲劇は歴史的に度々見られました。
ペストなどの病気が流行した際もユダヤ人が原因とされ、大虐殺が行われた痛ましい過去があります。
こうした“反ユダヤ”思想は20世紀になっても人々の心の根底に深くそして強く残っていました。
それを顕在化させたのがナチス・ドイツでした。
第一次大戦の敗戦から国家が破綻し1929年世界大恐慌の影響で貧困状態がピークに陥ったドイツを強国にすることを謳い、アドルフ・ヒトラーが国民社会主義ドイツ労働者党から頭角を現し始めたのです。
【#今日は何の日】1921年7月29日、ナチス・ドイツのヒトラーが、ナチス党の党首に就任。首相に就いたのは33年です。ユダヤ人の大虐殺が有名ですが、それより前に障害者も標的に。少なくとも20万人の障害のあるドイツ人らが殺害された、と知られます。(📷:Getty Images) pic.twitter.com/L2Tt7gS2Bk
— BuzzFeed Japan News (@BFJNews) July 28, 2017
「アドルフ・ヒトラーがなぜユダヤ人に目をつけたのか?」
これは「ドイツ人の共通認識として敵を作り、国民を団結させる」ことにあったとされています。
ヒトラーは“優生学”という考えを利用し“優性民族であるアーリア(ドイツ)人”が“劣勢民族であるユダヤ人”を排斥するという支配関係を構築することで、ヨーロッパの支配につなげようと考えたわけです。
もともと存在した宗教の問題そして貧困にあえぐ国民感情を逆手に取り、差別と迫害の意識を一気に煽ったわけです。
もちろん煽ったヒトラーが罪深いことは言うまでもありませんが、煽られた側の人間の心の闇にも病魔が住み着いていたのです。
追い詰められた人間の狂気は冷静な判断力を削り取ったという典型的な出来事と言わざるを得ません。
1938年11月パリにあるドイツ大使館でユダヤ人の青年が書記官を射殺する事件が発生しました。
この事件の動機は家族をナチスに迫害された恨みだったのですが、これを機にドイツ人によるユダヤ人の迫害がさらに酷くなり90人以上のユダヤ人が殺害される事件に発展します。
1938年11月9日
水晶の夜この日の夜、ナチスの突撃隊が7500か所のユダヤ人商店と280か所以上のシナゴーグを襲撃。パリのドイツ大使館員がユダヤ人青年に射殺されたことへの報復行為だった。この事件は砕け散ったガラスから「水晶の夜」と呼ばれ、2万6000名が強制収容所に送られた。 pic.twitter.com/n2nTlAEkgj
— 今日は何の日 (@kyouhanannda) November 9, 2019
これを水晶の夜事件と呼び、ユダヤ人はこの事件が原因で約3万人が強制収容所へ送られることとなりました。
その後1939年ドイツがポーランドに侵攻したことを皮切りに、ついに第二次世界大戦が勃発するのです。
当時ポーランドには200万人という大勢のユダヤ人が住んでいました。
これを物理的に全て追放するのは不可能である、と判断したナチス・ドイツは強制居住区への隔離そして大量虐殺への方針を転換していくのです。
ヒトラーがユダヤ人に行った人体実験(ホロコースト)の内容が悲惨…
1939⁻1945年ドイツ軍の政策はヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅✡️を目指すものでした。
⚫️ユダヤ人はゲットーや収容所に隔離された
⚫️1941年からドイツ軍は瞬時での虐殺を行う施設を建設しはじめた
⚫️第二次世界大戦中派ドイツ軍は600万人のユダヤ人を虐殺し、そのうち300万人は🇵🇱国民でした。 #80WW2 pic.twitter.com/qvWURSU4bY— ポーランド広報文化センター (@PLInst_Tokyo) September 9, 2019
ナチス・ドイツの第二次世界大戦中のユダヤ人の迫害は、「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人強制居住地区にユダヤ人を集め隔離し住まわせる理不尽な仕打ちからスタートしました。
冬は寒く夏は酷暑になる列車にユダヤ人をこれでもかというほどすし詰め状態で乗せて、強制居住地区に運んだため途中で亡くなる人も多かったということが分かっています。
やっとの思いでたどり着いても適正な人口密度以上に大量の人間を住まわせた結果、飢えや衛生環境の悪化による伝染病で多くの人々が犠牲になった事が分かっています。
差別はさらに酷くなっていきます。
そのきっかけとなったのは、1942年1月20日にベルリン郊外のヴァンゼーでの会議で全ヨーロッパで1100万人規模のユダヤ人抹殺計画が決定したことです。
1942年1月20日、ラインハルト・ハイドリヒやアイヒマンらナチス高官15人が集いユダヤ人に対する「最終的解決」を決定したヴァンゼー会議の場所となった別荘、ヴァンゼー会議会館に来た。事務的な書類がシステマチックに死を量産していく様が空恐ろしかった #ドイツジョカゲ同時代巡り pic.twitter.com/UBFZenPFsV
— タシガミ (@tasigami) August 14, 2017
ここが隔離から虐殺への本格的なターニングポイントとされています。
ナチス・ドイツではこの決定に従い、“効率よく虐殺を繰り返すための作業場所”として強制収容所をポーランド内に6箇所設立しました。
そして即座に殺す人間と強制労働を課す人間とに選別され、虐殺がどんどん進行する恐怖と絶望の日々が始まりました。
国籍や宗教は違えど同じ人間同士にも関わらず、虐殺を目的とした施設に収容し人間を処理していくやり方には嫌悪以上の感情を感じざるを得ません。
ここからはヒトラーを始めとするナチス・ドイツがユダヤ人に対して一体どんな悲惨な差別をしたのか、その事実に触れてみたいと思います。
ヒトラーのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは
ユダヤ人迫害の歴史を巡る①「アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所」アウシュビッツとビルケナウ、2つの収容所がある(アウシュビッツがキャパオーバーになりビルケナウを追加で作った)。ユダヤ人の大量虐殺が行われた場所。人体実験や強制労働なども行われ今も亡くなった人の正確な数はわかっていない pic.twitter.com/BaDMyetK1z
— 🌤️あおいちゅん🌤️ (@suddenly313) May 6, 2018
ポーランド南部アウシュビッツにある強制収容所で初めて毒ガス実験が行われたのは、1941年9月23日のことだと言われています。
その日からガス室では32分で約800人の人が命を奪われ、アウシュビッツの施設全体では1日に1万2000~1万5000人分の死体が出ていたことがわかっています。
即座に殺されることがなくとも絶望の淵に立たされ、自ら高圧電流が流れる鉄柵に身を投げる人が後を絶たなかったと言います。まさに負の施設です。
アウシュヴィッツ強制収容所の跡地には現在、博物館が建設され犠牲者の顔写真や遺品が公開されています。
アウシュビッツ強制収容所。誰もが知る負の世界遺産。今回の旅行で、そして人生で必ず訪れたいと思っていた場所だ。史上最悪の歴史を数時間で理解できたとは思っていない。しかし、来ると来ないとでは大きな違いがあるような気がする。同じ過ちを繰り返さないために学ぶ。それが今の自分にできること。 pic.twitter.com/wVL2dj6TTp
— DIGITAL COCAIN (@yamamoto_kumpei) November 26, 2019
第一収容所には“ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)”の文字があり、当時の様子をそのままに現代に伝えています。
また、その他にも当時のドイツ人医師たちは収容所にいるユダヤ人達を医療実験の検体として扱っていたことが分かっており、第一収容所にある第10地区の病院はその悲しき過去をたたずまいで私たちに伝えています。
このアウシュヴィッツ強制収容所はユダヤ人の虐殺を文書では残さず、口頭で伝えてきたナチス・ドイツの残虐性を伝える証拠としての歴史的価値はかなりのものです。
1979年世界遺産登録もなされていて、大量虐殺が行われた場所だからこその後世に伝えるべき責任を背負い、今でも現代人に戦争や人種差別の無意味さを私たちに伝える施設であり続けています。
何人のユダヤ人が人体実験にされた?どんな内容だった?
虐殺を目的とした施設に追いやられたユダヤ人は、一体どんな酷い目にあわされてきたのでしょうか。
記録によると主な内容は毒ガス(チクロンB)による大虐殺だったようです。
集められたユダヤ人の人々は「シャワーを浴びる」と説明を受けて裸にされ髪をそられて毒ガスが撒かれる部屋に閉じ込められたことが分かっています。
アウシュビッツ強制収容所、なかなか考えさせられたツアーでした…
働けば自由になると書かれた看板、しかし実際は90%が亡くなった事実。
シャワーを浴びると言われて連れ込まれたガス室、ユダヤ人の置き去りになった大量の旅行鞄や携行品…。ナチスドイツによる残虐性を深く実感です。 pic.twitter.com/cnub3Zi6LE
— 日福🇯🇵世界一周&DIA修行完了! (@TYoneFuku) October 29, 2019
10数分で死体の山が出来上がり、死体を焼却炉で焼きつつ金歯などの貴金属類は回収されたようです。
その他にも絞首刑・餓死・銃殺刑など、人を人と思わぬ卑劣な手段によって多くの人を死に追いやったという事が分かっています。
どこからどう見ても、“正気の沙汰とは思えない人間の狂気”がまかり通っていたという事実には恐怖しか感じませんよね。
第二次世界大戦中、約600万人のユダヤ人の命がナチスドイツによって奪われたとされています。
この大量虐殺はギリシャ語の“全てを焼き尽くす”という意味を持つ言葉から「ホロコースト」と呼ばれています。
ヒトラー自身にユダヤ人説?ユダヤ人の少女と仲良しだった?
600万人ものユダヤ人を虐殺へと追い込んだ張本人として歴史上最も危険視されるアドルフ・ヒトラー。
しかし、ヒトラー自身がユダヤ人ではないか?という説が浮上したのです。
その理由は、実はユダヤ人の血を持つ少女との交流を楽しみにしていたという事実があったからです。
これは1933年6月16日に撮られたアドルフ・ヒトラーとユダヤ系の少女ローザ・ベルニール・ニナウさんの親交がわかる1枚の写真です。
「ヒトラーとローザ」(1933年)。ヒトラーと一緒に写るローザ・ベルニール・ニナウはユダヤ人の少女でした。彼女にとって彼は「ヒトラーおじさん」であり、ヒトラーは彼女がユダヤ人と分かっても1938年ナチス高官が介入するまで友情を続けました。書肆ゲンシシャではヒトラーの写真集を扱っています。 pic.twitter.com/QpFPzLArOV
— 書肆ゲンシシャ/幻視者の集い (@Book_Genshisha) 2019年10月28日
ヒトラーがユダヤ人という情報はデマですが、ユダヤ人少女と親交があったのは事実です、
2人は偶然アルプスのヒトラーの別荘ベルクホーフで出会い、同じ誕生日だったことをきっかけに少女と母親を別荘に招き入れたことから交流が始まったことがわかっています。
それからほどなくして少女の母親がユダヤ人で少女の中にもユダヤの血が流れていることが発覚するのですが、ヒトラーはその親子との交流をやめようとしませんでした。
少女の母親は1935年から1938年の3年間に少なくとも17回、ヒトラーと側近に宛てた手紙を書いていたと言われています。
ヒトラーの個人秘書であるマルティン・ボルマンが、連絡を取るのを控えるよう親子に命令するまでやりとりは続いていたものと見られています。
ちなみに、穏やかな友好の時間に撮られた写真にはヒトラーがサインを入れて親子に送られていたようで、このサイン入りの写真がアメリカでオークションの競売にかけられ130万円で落札されました。
引用元:https://www.cnn.co.jp/fringe/35128827.html
1人の人間としてあまりにも整合性がとれていないヒトラーの行動ですが、ヒトラー自身が一番戦争に蝕まれていた人間だったのかもしれません。
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