週刊少年ジャンプで大ヒットを繰り出した漫画「るろうに剣心」。
「殺さずの正義」を貫き通した男として多くの女性ファンを虜にした緋村剣心ですが、実際に存在した剣客をモチーフにしていたというのはご存知でしょうか?
それは「河上彦斎(かわかみげんさい)」という幕末の武士でした。
緋村剣心のモデルになった河上彦斎は、虚実様々な「人斬り」の罪により、明治4年斬首刑に処せられる。彦斎の人斬りの中で、一番よく知られたものは佐久間象山暗殺である。抜刀斎もこの斬首により死んで、ようやく剣心となったわけだ。 #るろうに剣心 pic.twitter.com/qUVjpt2R42
— 酒上小琴【サケノウエノコゴト】 (@raizou5th) April 6, 2018
人斬り抜刀斎と呼ばれた緋村剣心のように、強い剣客だったのでしょうか?
また「るろうに剣心」の緋村剣心は逆刃刀を使いますが、河上彦斎も逆刃刀を使っていたのでしょうか?
河上彦斎とは一体どんな人物なのか調べてみましたので、ぜひご覧ください。
緋村剣心(るろうに剣心)のモデルは河上彦斎!どんな人なの?
河上彦斎は天保5年(1834年)に肥後の細川藩の下級武士「小森貞助」の次男として生を受け、はじめは「彦次郎」という名前でした。
しかしながら、次男である彦次郎(河上彦斎)は同藩である「河上源兵衛」の養子となり、名を現在の名前『河上彦斎』に改名しました。
そして16歳で茶坊主のとして藩主邸の花畑屋敷で召し抱えられ、雑用(掃除坊主)を担っており、雑用に対する武士からの目線はとても冷たく厳しいしつけをされていたようです。
しかし、勤勉で真面目な性格だった河上彦斎は我流を身につけ徐々に頭角を出し始め、国老附坊主まで出世をしました。
その後、轟武兵衛(儒学者)や林桜園(国学者)を先生として勉学に勤め、また宮部鼎蔵の元で武術を学びました。
#るろうに剣心 のモデル #河上彦斎 は熊本の下級武士で宮部鼎蔵(松陰の親友)に薫陶され攘夷の人斬りに。池田屋に斃れた宮部の仇討を叫びノリで #佐久間象山 を惨殺,[初めて人を斬った]感覚に苛まれ人斬りを止めたとか。彦斎を仰ぐ熊本攘夷党は時流に抗い神風連の乱を起します⇒https://t.co/VewUAIo1B6 pic.twitter.com/vVcMz6Olj7
— 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (@History_JP_5963) November 16, 2018
様々な学問や考え方に触れた河上彦斎は、尊王攘夷の思想を強めるのでありました。
尊王攘夷とは、動乱の江戸時代末期に生まれた天皇を尊重し、外国人を日本から追い出そうという思想です。
天皇を尊敬する、つまり天皇を第一に考え大切にするという『尊皇』の考え方と、外国人を追い出そうという『攘夷』の考え方が一つになったもの。
文久の頃(1861年〜1864年)に尊王攘夷派として活動し始めた河上彦斎は、剣客の才を認められ熊本藩新兵選抜に選ばれます。
また宮部鼎蔵らと同格の幹部にも推薦されました。
慕っていた恩師と同等になれえることは弟子にとってこの上ないほどの嬉しさでしょうね。
しかし、かの有名な「八月十八日の政変」により窮地に立たされた河上彦斎は宮部鼎蔵とともに細川藩を脱藩し長州へと逃げました。
程なく宮部鼎蔵は再び再起を図ろうと京の焼き討ちを企てていた長州藩に加わり、作戦を練るために池田屋で密談をしていると新撰組の襲撃に遭い宮部鼎蔵はそこで亡くなってしまいます。(池田屋事件)
葉室麟著「人斬り彦斎 神剣」を読んだ。肥後藩の茶坊主から刺客になった河上彦斎が主人公。佐久間象山らを斬った。天誅は神の命令なので、占いをする。新撰組の近藤勇や沖田総司と対面している。池田屋事件で彦斎の師だった宮部鼎三が殺されたので、近藤を仇と思う。沖田の結核を見抜き決戦を避けた。 pic.twitter.com/Bc3TjJW1b3
— 誰とはイワン34th@金沢市 (@dare_iwan) January 17, 2017
宮部鼎蔵の知らせを受けた河上彦斎は幕府への復讐を誓い、その手段の一つとして一橋慶喜の側近である「佐久間象山」の暗殺を企てます。
そこで長州藩はその陰謀に賛同し、ともに佐久間象山を狙います。
そして元治元年(1864年)7月11日に三条木屋町で馬上にいた佐久間象山の暗殺に成功します。
佐久間象山先生は京都でるろうに剣心の緋村剣心のモデルとなった河上彦斎らに襲われて亡くなったのですが、その際の検視書が残されています。
額、頬、左股、右脛を斬られていますが、意外にも胴体は斬られてないようです。
左股を3箇所も斬りつけている所がいかにも殺し屋っぽくて怖いですね。 pic.twitter.com/Np8wCYI8gJ— 新選組検定事務局長 (@shinsengumiken) November 15, 2018
この事件によって「人斬り彦斎」として名を知らしめた河上彦斎はその後も長州藩とともに行動をし、京でも禁門の変や、高杉晋作の騎兵隊にも参加しました。
様々な国の重役の暗殺を協力していた河上彦斎は当然、幕府から終われる身となります。
その頃、幕府は開国主義であったことに対して河上彦斎は倒幕を企てており、同じ思想をもつ大楽源太郎とともに再度、尊王攘夷を企てていましたが明治の新政府による弾圧に抗うことができなかったため投獄されてしまいます。
その後、明治四年(1871年)に処刑されて38年間の人生にピリオドを打ちました。
彼は最後まで尊王攘夷の思想を捨てずに邁進していった人だったのでしょう。
緋村剣心の逆刃刀は実在した?河上彦斎の愛刀は?
るろうに剣心、かなり見たい…
佐藤健演じる緋村剣心かなりカッコええ!
不殺の誓い、逆刃刀だ。ってとこサイコー♪ pic.twitter.com/qC3Da8m26x— 井原 楓人 / Fu-to Ihara (@ageagefuuty) September 15, 2014
緋村剣心の愛刀である「逆刃刀・真打」。
人斬り抜刀斎時代に起きたある悲劇をきっかけで、人斬りをやめ現在の流浪人(るろうに)になると決めた際に刀匠「新井赤空」から授けられたものです。
仕様は峰と刃が逆になっているため、逆向きに持ちかえない限りは人を殺せない仕様となっています。
では、緋村剣心のモデルである河上彦斎は逆刃刀を使用していたのか?
結論から言うと、有力だったのが「使ってなかった説」です。
剣客の持つ刀として何の理も持たない逆刃刀は実用向きではなかったと思われます。
河上彦斎が戦いに用いた「肥後国同田貫宗廣」という刀で、片手抜刀ができるほどの長さ(約63.0cm)だったそうで、刃はもちろん正規の向きで付いていたと言われています。
やはり幕末でも武士は武士ということでしょうか。
しかし、なんと河上彦際のものではないのですが、逆刃刀は存在していたそうです。
それは千葉県白井市内の旧家から発見されました。
<るろうに剣心の「逆刃刀」にモデルはある?>「逆刃刀」は緋村剣心が所有する刃と棟が逆向に打たれている刀。逆刃刀はるろうに剣心の作者のオリジナルとされているが、2013年に千葉県の江戸時代の名主の旧家の蔵から同じ構造の刀が発見された。 pic.twitter.com/YZrBqUicob
— 日本刀♥LOVE (@nihonnoto2) January 22, 2018
その実態は全長28cmで刃渡りは約22cm。
刀身は錆びついており刃文は見えなかったそうですが、通常の峰の部分が刃に、刃の部分が峰になっているのが逆刃刀であると実証していることがわかります。
旧家は牧主をやっていたそうなのでもしかしたら平民の中には逆刃刀を使っていた人がいたのかもしれませんね。
河上彦斎の流派は我流で身に付けたって本当?
みんな!
「るろうに剣心 消滅都市編」から緋村剣心の登場だよ!
古流剣術”飛天御剣流”の使い手で、弱き人たちのために剣をふるう、
かっこいい剣士なんだ( ´∀`)bグッ!( ゚д゚)ハッ!このポーズはもしや…
伝説の奥義「天翔龍閃」‼?#消滅都市2 pic.twitter.com/mIQ2GWFUCj— 消滅都市0. 公式@ギーク (@shoumetsutoshi) February 24, 2018
実は河上彦斎の身長は5尺(150cm)とその時代でも男性では大変小柄であったため、竹刀稽古ではいつも上から抑えられてしまい負けてばっかだったそうです。
そのため河上彦斎は自身の短所を活かすために我流で居合の道に進んだそうです。
すると、たちまちに真剣での戦いでは居合の鋭さに加え、逆袈裟斬りなどの実践剣術では右に出る人はいなかったそうです。
また独自の抜刀術「片手抜刀」の達人であったと言われています。
河上彦斎が緋村剣心のモデルであるとわかるのが、緋村剣心の奥義である天翔龍閃を放つ場面です。
この時剣心は左足を前に出し、片手抜刀の逆袈裟斬りで一刀目を繰り出します。
アニメの天翔龍閃も見てくれ
#るろ剣 #るろうに剣心 pic.twitter.com/tF2qnFhlIY
— 🐉 (@davidsonhuarche) April 6, 2018
これは河上彦斎が得意としていた抜刀術と酷似しており、踏み出す足こそ違いますが、右足を強く踏みこみ左足の膝が地面に触れるほどの低姿勢の一から逆袈裟切りを放っていました。
また飛天御剣流は多勢に対して有効的な流派であったのに対して、河上彦斎の考案した「彦斎流」も多勢に有効的な流派であったそうです。
(彦斎流という流派はなく河上彦斎が我流に名前をつけたそうです。)
河上彦斎には子孫がいる?
38歳という若い年齢でなくなった河上彦斎にも子孫がいたということをご存知でしょうか?
名前は河上利治という方で大日本生産党の3代目党首を務めた方です。
引用元:Wikipedia
大日本生産党の総裁だった河上利治って佐久間象山を暗殺した河上彦斎の孫だったのか。
— こーどー (@Kj49tsPYvl) June 11, 2012
河上利治は1966年11月13日に他界しましたが、自身の信念を曲げずに民衆のために最後まで慢心したと言われております。
信念を貫くということは河上家代々受け継がれてきた家訓であり、次のような文章によって伝えられてきたのです。
一、己の為には涙を流せ
二、他人(ひと)の為には涙を流せ
三、君國(くに)の為には血を流せ
まるで河上彦斎の生き方を家訓にしたかのような気持ちにさせる文章ですね。
河上彦斎と新選組の関係性とは?
三浦敬之助は本名佐久間恪二郎といい徳川幕府の崩壊のきっかけを作った佐久間象山の子供である。象山はるろうに剣心のモデルと言われている河上彦斎に暗殺され、不名誉な死に対し松代藩は佐久間家を断絶としたため仇を討つために象山の門人の会津藩士山本覚馬の紹介により客員として新選組に加わった。 pic.twitter.com/xIOFEQTt3D
— 平成新選組 (@rs45021436181) December 22, 2016
先ほども触れた「池田屋事件」で盟友・宮部鼎蔵を殺された河上彦斎は、佐久間象山を暗殺しましたが、そこに恨みを持った人物がいたのです。
それは佐久間恪二郎(三浦啓之助)という新撰組隊士で佐久間象山の実の息子でありました。
しかし、新撰組の隊長である近藤勇ですらも河上彦斎が目の前を通ると見て見ぬ振りをするほどの剣客になっていたため新撰組は手を出せない状態であったのです。
また政府重役の三条実美も「河上彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られない」とまで側近に漏らしていたほど、政府から恐れられていた河上彦斎は攘夷浪士からも有望株として慕われていたそうです。
それほど河上彦斎の影響力や実力が高かったということがよくわかるエピソードですね。
河上彦斎のお墓はどこにある?
よく勘違いされていますが、写真に掲載されているのは河上彦斎の『碑』であって『墓』ではありません。墓は写真の後方にあります。『應観法性居士』と刻まれた墓碑の側面には河上彦斎の通称である高田源兵衛の名前と没年日が刻まれています。 https://t.co/VVwMM9Ah6u pic.twitter.com/ZS6KykL5zl
— 吉野式@新徴組&新整隊(新整組) (@yoshino_siki) October 14, 2019
現在は、河上彦斎のお墓は残っておりません。
しかし、その存在や成し遂げたことを証明する石碑は残っており、場所は東京都東京池上本門寺にあります。
石碑の裏には徳富蘇峰による賛美文が刻まれていて、激動の時代幕末で尊王攘夷を死ぬまで貫いた河上彦斎の生き様を感じることができるでしょう。
霊山も初めて。坂本龍馬の墓と、『るろうに剣心』の剣心のモデルになった人斬り彦斎こと河上彦斎の墓にお参り。でもここは墓なのか慰霊碑なのかはよくわからなかった。 pic.twitter.com/1NEeIjyNJc
— 及川根緒@なろうで小説連載中 (@oikawaneo) November 3, 2017
とういうことで、今回は河上彦斎の歴史についてでした。
河上彦斎の墓(石碑)は都心からもすぐに行ける距離にあるので、緋村剣心のモデルが眠ってる地に一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
>河上利治は1966年11月13日に他界しましたが、自身の信念を曲げずに民衆のために最後まで『慢心』したと言われております。
慢心とは・・・
まさに現在の〇翼団体に通ずるものがありますな。