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緋村剣心(るろうに剣心)のモデルは河上彦斎!逆刃刀や子孫も実在した!

河上彦斎

週刊少年ジャンプで大ヒットを繰り出した漫画「るろうに剣心」。

「殺さずの正義」を貫き通した男として多くの女性ファンを虜にした緋村剣心ですが、実際に存在した剣客をモチーフにしていたというのはご存知でしょうか?

 

それは「河上彦斎(かわかみげんさい)」という幕末の武士でした。

人斬り抜刀斎と呼ばれた緋村剣心のように、強い剣客だったのでしょうか?

また「るろうに剣心」の緋村剣心は逆刃刀を使いますが、河上彦斎も逆刃刀を使っていたのでしょうか?

河上彦斎とは一体どんな人物なのか調べてみましたので、ぜひご覧ください。

緋村剣心(るろうに剣心)のモデルは河上彦斎!どんな人なの?

 

河上彦斎は天保5年(1834年)に肥後の細川藩の下級武士「小森貞助」の次男として生を受け、はじめは「彦次郎」という名前でした。

しかしながら、次男である彦次郎(河上彦斎)は同藩である「河上源兵衛」の養子となり、名を現在の名前『河上彦斎』に改名しました。

そして16歳で茶坊主のとして藩主邸の花畑屋敷で召し抱えられ、雑用(掃除坊主)を担っており、雑用に対する武士からの目線はとても冷たく厳しいしつけをされていたようです。

しかし、勤勉で真面目な性格だった河上彦斎は我流を身につけ徐々に頭角を出し始め、国老附坊主まで出世をしました。

 

その後、轟武兵衛(儒学者)や林桜園(国学者)を先生として勉学に勤め、また宮部鼎蔵の元で武術を学びました。

々な学問や考え方に触れた河上彦斎は、尊王攘夷の思想を強めるのでありました。

尊王攘夷とは、動乱の江戸時代末期に生まれた天皇を尊重し、外国人を日本から追い出そうという思想です。

 

天皇を尊敬する、つまり天皇を第一に考え大切にするという『尊皇』の考え方と、外国人を追い出そうという『攘夷』の考え方が一つになったもの。

 

文久の頃(1861年〜1864年)に尊王攘夷派として活動し始めた河上彦斎は、剣客の才を認められ熊本藩新兵選抜に選ばれます。

また宮部鼎蔵らと同格の幹部にも推薦されました。

慕っていた恩師と同等になれえることは弟子にとってこの上ないほどの嬉しさでしょうね。

 

しかし、かの有名な「八月十八日の政変」により窮地に立たされた河上彦斎は宮部鼎蔵とともに細川藩を脱藩し長州へと逃げました。

程なく宮部鼎蔵は再び再起を図ろうと京の焼き討ちを企てていた長州藩に加わり、作戦を練るために池田屋で密談をしていると新撰組の襲撃に遭い宮部鼎蔵はそこで亡くなってしまいます。(池田屋事件)

 

宮部鼎蔵の知らせを受けた河上彦斎は幕府への復讐を誓い、その手段の一つとして一橋慶喜の側近である「佐久間象山」の暗殺を企てます。

そこで長州藩はその陰謀に賛同し、ともに佐久間象山を狙います。

 

そして元治元年(1864年)7月11日に三条木屋町で馬上にいた佐久間象山の暗殺に成功します。

 

この事件によって「人斬り彦斎」として名を知らしめた河上彦斎はその後も長州藩とともに行動をし、京でも禁門の変や、高杉晋作の騎兵隊にも参加しました。

様々な国の重役の暗殺を協力していた河上彦斎は当然、幕府から終われる身となります。

 

その頃、幕府は開国主義であったことに対して河上彦斎は倒幕を企てており、同じ思想をもつ大楽源太郎とともに再度、尊王攘夷を企てていましたが明治の新政府による弾圧に抗うことができなかったため投獄されてしまいます。

 

その後、明治四年(1871年)に処刑されて38年間の人生にピリオドを打ちました。

彼は最後まで尊王攘夷の思想を捨てずに邁進していった人だったのでしょう。

 

緋村剣心の逆刃刀は実在した?河上彦斎の愛刀は?

緋村剣心の愛刀である「逆刃刀・真打」

人斬り抜刀斎時代に起きたある悲劇をきっかけで、人斬りをやめ現在の流浪人(るろうに)になると決めた際に刀匠「新井赤空」から授けられたものです。

仕様は峰と刃が逆になっているため、逆向きに持ちかえない限りは人を殺せない仕様となっています。

 

では、緋村剣心のモデルである河上彦斎は逆刃刀を使用していたのか?

結論から言うと、有力だったのが「使ってなかった説」です。

 

剣客の持つ刀として何の理も持たない逆刃刀は実用向きではなかったと思われます。

河上彦斎が戦いに用いた「肥後国同田貫宗廣」という刀で、片手抜刀ができるほどの長さ(約63.0cm)だったそうで、刃はもちろん正規の向きで付いていたと言われています。

やはり幕末でも武士は武士ということでしょうか。

 

しかし、なんと河上彦際のものではないのですが、逆刃刀は存在していたそうです。

それは千葉県白井市内の旧家から発見されました。

その実態は全長28cmで刃渡りは約22cm。

刀身は錆びついており刃文は見えなかったそうですが、通常の峰の部分が刃に、刃の部分が峰になっているのが逆刃刀であると実証していることがわかります。

 

旧家は牧主をやっていたそうなのでもしかしたら平民の中には逆刃刀を使っていた人がいたのかもしれませんね。

 

河上彦斎の流派は我流で身に付けたって本当?

実は河上彦斎の身長は5尺(150cm)とその時代でも男性では大変小柄であったため、竹刀稽古ではいつも上から抑えられてしまい負けてばっかだったそうです。

そのため河上彦斎は自身の短所を活かすために我流で居合の道に進んだそうです。

 

すると、たちまちに真剣での戦いでは居合の鋭さに加え、逆袈裟斬りなどの実践剣術では右に出る人はいなかったそうです。

また独自の抜刀術「片手抜刀」の達人であったと言われています。

 

河上彦斎が緋村剣心のモデルであるとわかるのが、緋村剣心の奥義である天翔龍閃を放つ場面です。

この時剣心は左足を前に出し、片手抜刀の逆袈裟斬りで一刀目を繰り出します。

これは河上彦斎が得意としていた抜刀術と酷似しており、踏み出す足こそ違いますが、右足を強く踏みこみ左足の膝が地面に触れるほどの低姿勢の一から逆袈裟切りを放っていました。

 

また飛天御剣流は多勢に対して有効的な流派であったのに対して、河上彦斎の考案した「彦斎流」も多勢に有効的な流派であったそうです。

(彦斎流という流派はなく河上彦斎が我流に名前をつけたそうです。)

 

河上彦斎には子孫がいる?

38歳という若い年齢でなくなった河上彦斎にも子孫がいたということをご存知でしょうか?

名前は河上利治という方で大日本生産党の3代目党首を務めた方です。


引用元:Wikipedia

河上利治は1966年11月13日に他界しましたが、自身の信念を曲げずに民衆のために最後まで慢心したと言われております。

 

信念を貫くということは河上家代々受け継がれてきた家訓であり、次のような文章によって伝えられてきたのです。

 

「三流の教え」

一、己の為には涙を流せ

二、他人(ひと)の為には涙を流せ

三、君國(くに)の為には血を流せ

まるで河上彦斎の生き方を家訓にしたかのような気持ちにさせる文章ですね。

 

河上彦斎と新選組の関係性とは?

先ほども触れた「池田屋事件」で盟友・宮部鼎蔵を殺された河上彦斎は、佐久間象山を暗殺しましたが、そこに恨みを持った人物がいたのです。

それは佐久間恪二郎(三浦啓之助)という新撰組隊士で佐久間象山の実の息子でありました。

 

しかし、新撰組の隊長である近藤勇ですらも河上彦斎が目の前を通ると見て見ぬ振りをするほどの剣客になっていたため新撰組は手を出せない状態であったのです。

 

また政府重役の三条実美も「河上彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られない」とまで側近に漏らしていたほど、政府から恐れられていた河上彦斎は攘夷浪士からも有望株として慕われていたそうです。

それほど河上彦斎の影響力や実力が高かったということがよくわかるエピソードですね。

 

河上彦斎のお墓はどこにある?

現在は、河上彦斎のお墓は残っておりません。

しかし、その存在や成し遂げたことを証明する石碑は残っており、場所は東京都東京池上本門寺にあります。

 

石碑の裏には徳富蘇峰による賛美文が刻まれていて、激動の時代幕末で尊王攘夷を死ぬまで貫いた河上彦斎の生き様を感じることができるでしょう。

とういうことで、今回は河上彦斎の歴史についてでした。

河上彦斎の墓(石碑)は都心からもすぐに行ける距離にあるので、緋村剣心のモデルが眠ってる地に一度足を運んでみてはいかがでしょうか?


1 個のコメント

  • >河上利治は1966年11月13日に他界しましたが、自身の信念を曲げずに民衆のために最後まで『慢心』したと言われております。

    慢心とは・・・
    まさに現在の〇翼団体に通ずるものがありますな。

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